歎異抄に泣く。

NHK Eテレで最近どハマりしている番組、100分de名著。
今月は、浄土真宗の祖「親鸞上人」の言葉を弟子が書いた「歎異抄」をやっている。

 

原文や理解が難しい本をわかりやすく解説してくれる番組なんだけれど、仕事をしながらBGMとして繰り返し聴いたりしていると本を1冊読み深めたような気持ちで理解できる。

100分de名著「歎異抄」

 

浄土真宗は親の実家が信仰してる宗派。
でも実家自体も冠婚葬祭以外で特に宗教的な行事などしてこなかったので、あまり意識したことはない。

お遍路をしているから真言宗かというと、そうでもない。
むしろ何かの宗派を信仰することで、他のことが見えてこなくなるのは怖いから、あえて信仰はせず理解をする。

 

「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」

歎異抄第三章の悪人正機についての一節。

ここでいう善人や悪人とは、行いの良い人悪い人ではなく、悟りを開ける人そうでない人という意味ではあるが、煩悩にまみれた私などはどんなに良い行いをしようとも悪人である。

阿弥陀仏さまがお救いくださるといっても、私にはそんな資格もなく。
そう思うと涙がとまらなくなる。
お遍路をしていても浄土に導いてくださいなどとお願いすることもなく、私の罪によって迷惑をかけた人たちの心を安らかにお救いくださいとずっと祈っている。
自分が救われてはいけないのだ。

 

ちっちゃい自分が嫌い。

最近このメカメカした妖精さんたちに心癒されていてる。

2016-01-27 13.32.29

昨日、幕張メッセで開催されたワンダーフェスティバル2016冬に行って、
このメカトロウィーゴの作者さんである、モデリズム小林さんに会う機会があった。

油性ペンを持って行ってサインをもらうファンも多かったのに、
話しかけることすらできない自分に歯がゆい思いをした。

きっと他の人が同じようにもじもじしていたら、「私が声かけてあげる!」なんて平気で言える。
なのにどうして自分のことだと、何も言えなくなってしまうのだろう。

 

「私もいま、頑張って作っているんですよ!」って話したかったな。
きっと喜んでもらえると思うのに。

うちでメソメソしてるだけの、タイニー君よりも小さい私。

さらけだす。

去年の健康診断で高血圧と言われた。
投薬治療などでほぼ正常値を保てるようになってきて油断した。

先日の検査で、あまりいい結果がでなかった。

 

自殺願望から脱却はしているが

死んでしまいたいと毎日のように考えてたあのころ。
けど今は違う。
死ぬ前に一度は・・・と思うと、軽々しく死んではいけないと思う。

もちろん寿命なら仕方ない。

けど、待ち続けていいのなら、もうちょっとだけ生きていよう。
そう思っている。

 

この先生きのこるには

なんとなくじゃいけない。自分を追い詰めよう。
そのためにはどうする?

全部オープンでやろうか。数値もなにもかも。
恥ずかしいとか情けないとか全部。

 

そうだ、全部だ。

 

 

 

63番札所・吉祥寺

7月18日に打ち合わせのために香川県へ。
前日に宿を予約しレンタカーを借りた。

実際の打ち合わせは数時間だったが、前回はiPhoneが何かの身代わりに壊れたので、その続きの巡拝をしようと思った。

74番甲山寺で、いつもは気にもしなかった毘沙門天のお守りを買った。
ご利益というより、自分の気持ちのモチベーションが維持できるかなと思った。

翌日、レンタカーのブレーキペダルの位置が悪く、膝が痛くなったので、ゆっくり巡拝して帰ろうと思いはじめた。

63番札所…毘沙門天をご本尊にする吉祥寺まで来た。
ここには本堂の前から目をつぶって金剛杖を中央の穴に通すと願い事が叶う「成就石」や、後ろからくぐりながら願をかけると叶うという「くぐり吉祥天女」などがある。

地元のおばちゃんがひとり。静かな境内。
自分はさっさと読経を済ませて納経所に行こうとしたら、おばちゃん「天女さんくぐると願いがかなうから、通って行きなさいね!」と勧めてくださった。

お接待の心なら受けるべきなのだろう。いや、断っちゃいけない。
けれど、自分の願いってなんだろう?願いを叶えていいものなのだろうか?

お遍路はなにか願いを叶えるためではなく、自分の行いで迷惑をかけた人々への償いの気持ちを巡拝して手を合わせ祈ることで昇華しようとしてるもかもしれないと気付かされたような気がした。

 

毘沙門天がお守りを授けれくれて、吉祥天から声をかけられたようだ。

それが7月19日なのだから、意味深い。

なにから卒業するのだろう

なんだろう、会社辞めて次のステップに行く前の、ちょっとした卒業旅行のやうな感じ。

今後何をするかわからないなら不安もあるかもだけど、帰ったらいろんなものが手ぐすね引いて待ってるらしい。だから、今を思う存分楽しみたい。

今日まではそんな気持ち。

このお遍路が終わったら、ストイックに生きていく。もっともっと一皮むけた自分になるために、研ぎ澄ましていく。

実は巡拝しながら、自然とそんな気持ちになってきていた。

だから明日からはきっとそんな気持ちの方が大きい巡拝になってく気がする。

室戸岬は空海が空海になった(悟りを開いた)地。

そこで見える風景が、私にも何か見えるといいな。

私の中の天使、私の中の悪魔。

天使はいつも言う。
これポチちゃいなよ!いいよ!楽しいよ!

悪魔はいつも言う。
軽はずみは行動は慎んで。ちゃんと考えて!

 

天使は言う。
絶対後悔するって!いまやっちゃいなよ!

悪魔は言う。
その時はよくっても計画的に慎重にやらなきゃ!!
後悔はずっと続くものなんだよ!

 

私は知ってる。
本当は天使は悪魔だし、悪魔は天使だってこと。

 

気持ちが直球でありたいのに。

落ち込んでいる時、寂しい時、つらい時
大好きな人から心配してもらったり、声をかけてもらえると、嬉しい。

けど、素直に「ありがとう」って言えない時がある。

 

逆にそんな人が同じよにつらそうにしていたら
真っ先に声をかけてあげたい・・・のに、どうしたらいいんだろうとか、なんて言ってあげたらいいんだろうって悩んでしまう。

そして「わざと声かけなかったんだからっ!」なんて、大人気ないことをいってしまう。

これまた素直じゃない。

 

自分の名前には「直」って入ってるのは、素直な人になって欲しかったのかもしれないけど、自分の中では言葉が「直球」すぎて傷つけてしまいそうで、すごく怖いのよ。

 

そんなはずじゃないんだけれど。

でも自分には、ツバメのような翼はない。

私はどちらかというと、子供の時からもずっと社会的弱者家庭だと思う。
けれど、誰かに同情されるのとか、施しを受けるとか、そういうのは大嫌い。

なんて利己的というかワガママなんだろうと思う。

 

そして、誰かのためにしたことがとても感謝されて、みんなに笑顔があふれると、本当にうれしくて・・・

なんてワガママなんだろうか。

 

なんだっけ、あの童話の「幸福な王子」に出てくるツバメみたい。自分にはサファイヤもルビーも持ってないから、それを届ける役、それでもいい。みんながしあわせになっていけば、自分はきっと満足して死んで行ける。

 

神様は認めてくださるような尊き命にはなれないけど、誰かが笑顔になるんだったら出来るちょっとのことで、自分も幸せになりたい。

白い薔薇は大好きであり大嫌い。

家族から「花より団子、団子より酒」・・・という扱いの隊長です。

 

でも誤解ですよ

酒は好きです。確かに団子より好きです。
しかしですね、私はお花大好きですよ。ほんとに誤解ですって。

ただね、うちに猫がいるとお花を愛でてることが出来ないじゃないですか。
無邪気に遊ぶ猫を叱るなんて無粋なこともしたくありません。

気持ちだけありがたく受け取るというだけなんです。
でもね、会社には毎月のように(いやもっと?)花を買って飾ってますので、ご安心くださいまし。

 

もともとは「父の日」由来

母の日は赤いカーネーションって相場ですけど、父の日は薔薇だってご存じですか?
でも父なし子の私は「父がいない:白い薔薇」なわけです。

白い薔薇の花ことばは「尊敬」なので、純粋に父を尊敬してるという気持ちとは合ってて好きなんです。
でも、「父がいない」ことを公表しちゃうみたいな意味では嫌いなんです。
(今は公表してても小学校の時はそれが嫌だったのからね)

 

薔薇の花束の思い出

薔薇といえば・・・26年前に入籍した時、それまで音信不通だった小学校の同級生と連絡がついて、
サーモンピンクの大きな薔薇の花束(50本ほどの束)をお祝いにと届きました。

宛名は小学校の時の仲良しグループの中の一人の男子。

当時男女5人くらいの勉強ばかりしてたグループがあったんですが、その中に初恋の人がいました。
彼は秀才で、今は大学教授をしているそうです。その彼と並んで秀才の男の子がもう一人いたんです。
その男子からの花束のプレゼントだったので、説明に困りました。でもみんな仲が良かったので代表してくれたんだと思ってますけど。

でなきゃほれてまうわーw

 

余談ですが

男性は元カノのプレゼントを捨てられないで、女性は元カレのは捨てちゃうって、よく聞く聞きますが、
私は今まで男性からプレゼントされたものを捨てたことはない(女性からのもだけど)んだけど、これって男子脳??