2011年03月11日午前
千葉市立養護学校高等部の卒業式。
通所施設、養護学校小学部・中学部・高等部と、長い間母親の私も一緒にいろいろなものを学んでいた。
一緒に卒業だった。だが、ゆっくり感慨に浸る余裕もなく、私は午後から出勤だった。
2011年03月11日午後13時
金曜日の授業は15時から21時。そして翌日の土曜の朝9時に都内で打ち合わせがあった。
まあいつものようにホテルを予約しておくかってポチッたのはコンフォートホテル神田だった。
2011年03月11日午後14時
いつもなら千葉駅で総武線快速に乗り、錦糸町で各駅停車に乗っていくのだが、
その日はなぜか千葉駅からずっと各駅停車に乗った。
なんでだろう?結果的にはよかった。
虫の知らせでもあったのかな?でも急いでたはずなんだけど・・・
2011年03月11日午後14時46分
よく見ると視点が低いと思う。
なぜかといえば、膝がガクガクして立っていられなかった。
平井駅には48分着予定だったので、実際にはゆれ始めて急いでホームに止まり、
アナウンスで急いで電車からおりてくださああああああいいい!って叫んでて
あわててホームに出たけど、揺れがすごくて座り込んでいたの。
でもね、ここで映像を残しておかなきゃって思うあたりはweb屋なんだろうね。
2011年03月11日午後15~17時
平井駅でトイレすませて飲み物を確保し、すぐに徒歩で神田まで歩こうって駅を出た。
電話なんかつながらないから、家族や友人たちとTwitterで情報をやりとりしつつ、小さいころよく歩いた道を歩き、両国橋を目指した。
荒川・江戸川までや秋葉原まではよく自転車で出かけていたし、道は把握してる。
あわてず歩いた。
途中あちこちで水道管から水が出ていたり、家が壊れたりしていた。
15:35 平井駅近くの民家。都内でもこんな場所があちこち。
16:18の錦糸町はバスを待つ人たちでだんだん埋め尽くされていった。
こんな風にして教室まで何とかたどり着いた。2時間半かかった。
2011年03月11日午後18時~
職業訓練校についてから、ネットでニュースを集めた。
自力で来た生徒から、「先生、教室の臨時休校のお知らせをあげて!みんな見てると思うから!」
そういわれて更新したのはWordPressで個人的に設置した学校サイトだった。
なんとか学校での連絡などをした後、ホテルに向かった。
あの時間の神田駅周辺のホテルはもちろん満室。
なんで出かける直前に予約していたから、本当に助かった。
いろんな意味で強運を発揮したと思う。
けど、余震の中、怖くて家族とSkypeで安全確認した後は、涙が止まらず、ひとり泣いていた。
2011年03月12日
ホテルをチェックアウトした後、都内にいる娘の家まで徒歩で向かった。
娘とたわいもない話をしたり、漫画やゲームで遊んだ。
2011年03月13日
何とか動き始めた電車で娘と二人で、自宅に帰った。
こうしてあの3年前を振り返れるのは、まあブログに書いてたからだろうけど、それ以上に記憶に鮮明に残ってるからね・・・
で、なぜ故郷を思い出すのかといえば
あの時都内を地図見ないで歩けたのは、自分のふるさとだったから。
電池を食うので、30分ごとに休憩するたびに電源を入れたり落としたりしてた。
そうして歩きながらいろいろ思い出してたんだ・・・
その後父のふるさとに思いを馳せた
父の故郷は福島県。親戚も浜通りに多い。
しばらく連絡が取れなかったのは、御存知のとおり。
もし父の遺骨を千葉に埋葬しなおしてなかったなら、私は絶望のどん底だっただろう。
こうして振り返ると、何もかもがいい方向に転んで運がよかったとかしかいえない気がしている。
もちろん父がいつものように見守ってくれてたんだろうと思うけど。
父の回想はなぜかバレンタインデー2/14に書いたけど、亡くなって40年近い。
けど病院に毎日通った日々、葬儀、ひとりになった母を支えた日々。
今でもフルカラーでありありと思い出せる。
週末の路地で将棋さしてるおじちゃん、
スチロール箱の植木にみずやってるおばちゃん、
そして趣味の流木工作をしながら福島の民謡を私に教えてくれた父。
そういうものが私の中の東京であって、それ以外ではありえない。
こうしてブログを書きながら涙をこらえてるのもつらくなったので、もうやめよう。
3月の月末に、バカな友人たちと一緒に東北に行きます。
桜前線捕獲大作戦には若干早いかもしれないけど、甘いものにやられてきます。
それだけじゃなく、女川も見てきます。
ハンカチいっぱいもってこう。